ファミリーヒストリーブログ

椎名氏(千葉市緑区椎名崎)

椎名氏は桓武平氏千葉一族。千葉庄椎名郷(千葉市緑区椎名崎)が発祥地で、千葉介常重(1083年〜1180年)の子の胤光が椎名氏を名乗る。椎名胤光は千葉庄内から柴崎城(匝瑳郡横芝光町)に移った。椎名氏は三谷氏と並んで東総の有力豪族であったが、近隣の井田氏が領土を侵略して、椎名氏と三谷氏は井田氏の支配下になったが、その後離反したと伝わる。なお、南北朝時代に越中国新川郡の松倉城に移住した椎名氏も存在する。家紋は「九曜」「沢瀉」「片喰」「蔦」「三つ巴」。

三谷氏(千葉県茂原市)

三谷氏(桓武平氏千葉氏族)。上総国埴生郡三谷(千葉県茂原市)が発祥地で、千葉胤正(1141年〜1203年)の四男胤広が三谷氏を名乗ると伝わる。戦国時代に三谷信慈入道(大膳亮胤興)が隣接した井田氏と対立して1555年に井田因幡守友胤に討たれ、井田氏は三谷氏の坂田城等を奪い、三谷氏の一族や家臣は井田氏に従っている。

楯岡氏(山形県村山市楯岡)

楯岡氏は清和源氏足利氏流斯波氏で最上氏の一族です。発祥地は山形県村山市楯岡。今回は最上氏第11代当主の最上義光の弟で楯岡甲斐守光直(〜1629年)の系譜です。楯岡光直は「奥羽永慶軍記」に「大阪夏の陣」の家親出陣の際に山形の留守を預かったとあります。家紋は「菊」と「桐」の御紋で後年「菊」は「蛇の目」、「桐」は「剣酢漿草」に替えており、明治には「九曜」を用いている。兄最上義光の次男家親を毒殺したと家老松根備前守に訴えられるが、幕府は松根備前守の私恨とし、松根備前守は筑後柳川に配流となる。「山野辺家文書」や「義光物語」には妾婦の暗殺と伝わる。

佐竹氏(茨城県常陸太田市)

佐竹氏は源頼義の子で源義家の弟である義光流源氏。佐竹氏の始祖は新羅三郎義光の孫の昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)を領して「佐竹」を名乗る。戦国時代に有名なのは佐竹義宣で佐竹氏19代当主。出羽久保田藩の初代藩主。母は伊達晴宗の娘で伊達政宗は母方の従兄。写真は東京都台東区にある正洞院。佐竹氏の家紋は「扇に月丸」。

葛西氏(東京都葛飾区)

葛西氏は下総国葛西御厨(東京都葛飾区)が発祥地。初代の葛西清重(1162年〜1238年)は、秩父平氏一族で豊島氏当主豊島清元の三男。清重は奥州合戦の活躍により奥州藤原氏の滅亡後、奥州総奉行を任せられています。葛西氏は本拠地の下総国葛西から後に陸奥に本拠を移しています。写真は葛西清重のお墓と伝わります。葛西氏の家紋は「三つ柏」です。

西光寺(葛飾区四ツ木)は鎌倉時代、葛西清重の居館跡と伝わり、近くには葛西清重夫妻のお墓があります。また、葛飾区東堀切にある普賢寺も葛西氏の居館跡と伝わり、同寺には葛西氏のお墓と伝わる墓石があります。

葛西氏が居館としてたと伝わる葛西城は東京都葛飾区青砥にあり中川を天然の堀とした平城です。築城者、築城年代は不明で、戦国時代には後北条氏の支配下にあり、その後江戸時代には将軍家の鷹狩りの宿舎として「青砥御殿」が建てられました。なお「葛飾区郷土と天文の博物館」には葛西城にまつわる資料が展示されています。

最上氏(山形県山形市)

最上家のお墓の家紋が「三つ引両」の件の続報です。
お墓は現在東京都台東区西浅草の萬隆寺にあり、最上義光の孫の義俊、義俊の長男義智、また義如以降は萬隆寺に葬られているとあり、また義俊の二男の義長の系統も萬隆寺です。萬隆寺は曹洞宗で元中5年(1388年)玄路統玄によって出羽国に草創して、のち兵火によってハ世路山が江戸湯島に移して、湯島で火災にあい現在地の台東区西浅草に換地されています。資料に義俊の直系は「二つ引両」とあり、義長の系統には「二つ引両」とは記載しておらず、「引両筋」とある事から、義長の系統が「三つ引両」を使用していたかもしれません。

最上氏は出羽国最上郡山形(山形県山形市)が発祥地で、清和源氏足利氏の一族である奥州探題の斯波家兼(1308年〜1356年)の次男の斯波兼頼が羽州探題最上氏の祖で山形城を本拠としました。戦国時代には最上義光(1546年〜1614年)が57万石の大名となり全盛期を築き上げました。写真は「旧山形城主最上家之墓」で、旧家臣が明治時代に建立したと伝わります。最上家の家紋は清和源氏足利氏流の「二つ引両」ですが、写真のお墓は「三つ引両」であり疑問が残ります。

岩城氏(福島県)

岩城氏は常陸平氏の庶流で陸奥国南部(福島県)に土着した常陸平氏の子孫または、石城国造の末裔であると伝わる。写真は江戸時代前期の大名で出羽国亀田藩3代藩主の岩城重隆(1628年〜1708年)の継室で、越前丸岡藩の第2代藩主本多重能の娘の墓石です。岩城家の家紋は「連子に月」。

蜂須賀氏(愛知県あま市蜂須賀)

蜂須賀氏は尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県あま市蜂須賀)が発祥地。戦国時代には蜂須賀正勝(1526年〜1586年)が羽柴秀吉に仕え播磨龍野城主となり徳島藩主蜂須賀家の祖となった。家紋は「蜂須賀万字」

本多氏(大分県)

本多氏は藤原北家の後裔と称しており、豊後国日高郡本多郷が発祥地と伝わる。南北朝時代に足利尊氏に仕え、戦功で尾張国横根郡と粟飯原郡の領主となり、室町幕府の奉行衆も兼ね、後に三河に移住したと伝わります。写真のお墓は陸奥泉藩1万8千石「本多家累代墓」で、家紋は「立ち葵」です。

六郷氏(秋田県仙北郡美郷町六郷)

工藤氏流六郷氏は、出羽国仙北郡六郷邑(秋田県仙北郡美郷町六郷)が発祥地で、藤原南家為憲流工藤氏支流(二階堂氏支流)。初代六郷氏は六郷道行で長男の政乗(1567年〜1634年)が出羽国本荘藩の初代藩主。六郷氏は11代続いて明治時代に至った。六郷氏の家紋は「三つ亀甲の内七曜」。

稲葉氏(愛媛県)

稲葉氏は伊予の豪族河野氏の一族と伝わるが、他にもいくつかの説があり明確な出自は不明。なお戦国時代に活躍した稲葉良道(一鉄)の祖父の代に美濃に流れてきたとの事です。稲葉良道(1515年〜1589年)は西美濃三人衆の筆頭で斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣となり、稲葉氏は稲葉正知(1685年〜1729年)が山城淀藩10万2,000石の初代藩主で、稲葉氏は明治維新まで存続する。写真は山城淀藩稲葉家のお墓「開基稲葉家各霊尊儀」で、家紋は「折敷に三文字」です。

遠藤氏(千葉県)

遠藤氏は千葉氏庶流の東氏が下総国東荘(千葉県香取郡東庄)より美濃国へ移った時に東氏に従い美濃国へ移った。戦国時代には遠藤慶隆(1550年〜1632年)が大名として、郡上八幡城主、美濃八幡初代藩主、三上藩遠藤家初代となり、遠藤家は明治維新にいたった。写真は近江三上一万五千石の「旧遠藤・原家累代之墓」で、家紋は「亀甲に花菱」です。

阿部氏(奈良県桜井市阿部)

阿部氏の始祖は第8代孝元天皇の第1皇子の阿部大彦命で、阿部大彦命は阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。奈良県桜井市阿部で栄える。写真のお墓は徳川氏の譜代の家臣で阿部正勝の系統の正春流で、上総国佐貫藩1万6000石の阿部家累代之墓です。歴代藩主10名の名が刻まれています。初代藩主は阿部正鎮(1700年〜1751年)。佐貫阿部家の家紋は「丸に左重ね違い鷹の羽」

建部氏(滋賀県)

建部氏は建部朝臣と宇多源氏佐々木氏流の説があり、佐々木氏流は近江国神崎郡建部が発祥地と伝わります。戦国時代には建部寿徳(1537年〜1607年)が織田信長、豊臣秀吉等に仕え、建部家は江戸時代に摂津尼崎藩、播磨林田藩の藩主で明治維新まで存続しました。写真は播磨林田藩の建部家のお墓で家紋は市女笠/建部蝶。

新渡戸氏(栃木県芳賀郡二宮町水戸部)

新渡戸氏は桓武平氏千葉氏族で古くは葛西氏に属し後に南部氏の家臣になる。奥州千葉一族と伝わり、新渡戸家の祖は千葉介常胤(1118年〜1201年)の孫の境常秀で、平家との戦いの戦功によって下野国水戸部村(栃木県芳賀郡二宮町水戸部)を与えられ、貞綱の代に新渡戸を称したという。新渡戸氏の家紋は真向月星。『武士道』で有名な新渡戸稲造は上記の子孫と伝わります。

滝沢氏(秋田県由利本荘市前郷滝沢)

滝沢氏は秋田県由利本荘市前郷滝沢が発祥地です。奥州藤原氏に臣従して鎌倉勢と戦った由利氏は許され旧領に戻り郡地頭として鎌倉御家人となった。1467年に由利十二頭の一人が滝沢氏で1575年に滝沢氏は矢島氏に攻められ滝沢政家以下多くの家臣が討死、政家の子は最上義光を頼って山形へ落ち延びた。写真の墓石は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』で有名な滝沢馬琴または曲亭馬琴(本名滝沢興邦)で上記滝沢氏の末裔と伝わります。滝沢氏の家紋は亀甲紋もしくは巴紋とおもわれます。

水野氏(愛知県春日井市・瀬戸市)

水野氏は尾張国春日井郡水野庄より起こる。源経基の第二子満政を祖としている尾張源氏の清和源氏浦野氏族。浦野重遠の子の重房が小河氏を名乗り、重房の子の重清が水野氏を名乗った。写真は徳川家康の生母の於大の方(1528年-1602年)の墓石で於大の方の父が水野忠政(1493年〜1543年)と伝わります。水野氏の家紋は水野沢瀉

夏目氏(長野県)

夏目氏は信濃国夏目庄より起こる。清和源氏の源満快から五世孫の為邦(村上源判官代)が信濃村上氏。その孫の国忠が奥州藤原氏の4代目当主泰衡を追討して信濃国夏目村の地頭職を賜り、子の国平(1175年〜1225年)が夏目氏の始祖と伝わります。その後夏目氏は三河に移っています。戦国時代に有名な夏目吉信(1518年〜1573年)は徳川譜代の家臣であり、1573年の三方ヶ原の戦いで留守居だったが、家康の救援に向かい、家康を逃して武田勢の追手と奮戦し戦死しています。なお、明治の文豪の夏目漱石は夏目氏の後裔と伝わります。家紋は井桁に菊紋。

蒲生氏(滋賀県蒲生郡)

蒲生氏は近江蒲生氏と大隅蒲生氏が伝わります。今回は藤原氏秀郷流の一族で、近江国蒲生郡(滋賀県蒲生郡)が発祥地の蒲生氏です。戦国大名で有名なのは蒲生氏郷(1556年〜1595年)で、嫡男は陸奥会津藩主の秀行。秀行の正室は徳川家康の三女振姫で、秀行の長男忠郷の正室は藤堂高虎の娘です。蒲生氏は忠郷の弟の忠知が1634年に京都の藩邸で急死し蒲生家は断絶しております。家紋は蒲生対い鶴です。写真は徳川家康の側室お竹の方の墓石で、蒲生秀行の正室振姫の母になります。

内藤氏(愛知県)

内藤氏は多数ある氏族の一つで中世から近世まで栄えた豪族や大名の一族です。写真の墓石は三河系の内藤氏で藤原氏秀郷流の一族と伝わります。三河国岡崎の竹田宗仲の子で内藤忠政の養子となった内藤清成の長男清次(1577年〜1617年)と次男清政(1603年〜1623年)です。内藤清政は安房勝山藩内藤家の初代藩主。清政の弟の正勝が死去して安房勝山藩は廃藩となった。正勝の子で清政の甥の重頼の子の清枚が信濃国高遠に移封して明治維新まで存続した。三河内藤氏の家紋は下り藤。

池田氏(大阪府和泉市)

池田氏は日本に多数ある氏族の一つで、和泉国池田村(大阪府和泉市)が発祥地の一つです。源頼政(1104年〜1180年)の血筋が池田氏を継いだとあります。写真は因幡国鳥取藩の支藩で若桜藩の第5代藩主池田定常(1767年〜1833年)の墓石です。池田定常は学者や文学者との交流が多く群書類従の保己一とも交流がありました。写真の墓石ですが、よく見て頂くと石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言い、亀趺(きふ)とは台石の一種で、石碑を載せる台石を大亀の形にしたものです。写真の大亀は中国の伝説で贔屓(ひいき)といい、龍が生んだ9頭の神獣の竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ています。重きを負うことを好む事から、古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多いです。なお、東京国立博物館近くの表門は鳥取藩池田家の江戸屋敷の表門です。若桜藩は明治3年に鳥取藩に帰属し藩主家は明治17年に子爵となっています。す

小堀氏(滋賀県長浜市小堀町)

近江国坂田郡小堀村(滋賀県長浜市小堀町)より起こる。小堀氏は藤原秀郷の後裔で右近将監光道の時に小堀庄の領主となって小堀氏を名乗り子孫は小堀庄に住んだとあります。小堀氏で有名な大名は小堀政一(1579年〜1647年)で、茶道の小堀遠州流の祖です。また備中松山藩第2代藩主で近江小室藩初代藩主でもあります。小堀政一の正室は藤堂高虎の養女(藤堂嘉晴の娘)。なお近江小室藩は6代目藩主の小堀政方の時の1788年に廃藩となっているが、小堀家は後に旗本として続いております。小堀家の家紋ですが定紋は花輪違、丸に卍。元は扇に鶴丸。

前田氏(愛知県名古屋市中川区)

前田氏は日本に多数ある氏族の一つで、戦国時代には尾張国愛知郡の前田家が活躍した。写真のお墓は戦国大名加賀藩主前田利家(1539年〜1599年)の四男で加賀藩第2代藩主の利常の三男利治(1618年〜1660年)が加賀国大聖寺藩初代藩主となり、その加賀大聖寺藩の合祀です。家紋は棒梅鉢。加賀大聖寺藩は加賀国江沼郡(石川県加賀市と小松市の一部)にあった藩で九谷焼が有名。

板倉氏(栃木県足利市板倉)

下野国足利郡足利庄板倉より起こる。現在の栃木県足利市板倉です。板倉氏は清和源氏足利氏流で足利宗家四代当主の足利泰氏(1216年〜1270年)の次男の義顕が板倉氏の始祖と伝わります。板倉氏では京都所司代の板倉勝重(1545年〜1624年)が有名です。写真は越後村松藩4代当主堀直堯嫡男直泰の正室で備中松山藩の初代藩主板倉家宗家7代目の板倉勝澄(1719年〜1769年)の娘まんのお墓です。写真のお墓には村松堀家の釘抜き紋と板倉家の巴紋の二つの家紋があり、両家を同じく大切にされていたように伺えます。

南摩氏(栃木県鹿沼市)

下野国都賀郡南摩庄(栃木県鹿沼市)より起こる。南摩氏は秀郷流藤原姓の佐野氏族で佐野氏始祖の佐野有綱(〜1186年)-高綱-安綱-盛綱-郷綱が南摩城の城主となり南摩氏を名乗ったと伝わります。南摩家は幕末において会津藩の上級藩士でした。

久賀氏(栃木県鹿沼市久我)

下野国都賀郡久我(栃木県鹿沼市久我)より起こる。久賀氏は秀郷流藤原姓の佐野氏流で佐野氏始祖の佐野有綱(〜1186年)-高綱の子の安綱が久賀に住み久賀氏を名乗ったと伝わります。後裔の久賀利綱は1572年に近隣の壬生義雄と合戦して討ち死にしたとあり、久賀氏は戦国時代の後期まで活躍していた事が伺えます。

茂呂氏(栃木県)

下総国結城郡(茨城県結城郡)に茂呂郷があり、栃木県や群馬県にも茂呂という地名が存在しました。茂呂氏は秀郷流藤原姓の久賀氏族で久賀重宗の四男宗昌の子の秀義が茂呂氏を名乗ったと伝わります。佐野氏の第15代当主佐野昌綱(1529年〜1574年)の妹が茂呂利資の室となっており、また栃木県の藤岡城の家老にも茂呂氏が存在する事から、茂呂氏は有力な土豪だった事が伺えます。現在茂呂氏は栃木県と茨城県に多くおります。

仙石氏(岐阜県)

仙石氏は美濃国出身。藤原北家利仁流で後藤氏から千石氏、そして仙石氏となり仙石基秀の甥である仙石久重が家督を引き継ぎ、久重の母方が清和源氏頼光の土岐氏で、以降は土岐氏一門としています。戦国時代に有名なのは仙石秀久で信濃小諸藩の初代藩主であり仙石氏は明治まで続く事になります。仙石氏の家紋は写真の通り「無の字/永楽銭」です。

近衛家(京都府京都市)

近衛家は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる公家で五摂家のひとつです。近衛は平安京の近衛大路からきております。尊卑分脈では太政大臣藤原道長から五代目が藤原忠通で、忠通の子の基実(1143年〜1166年)が近衛家の祖です。写真のお墓は東京都の常泉寺にある近衛家二十二代目の近衛家熙(1667年〜1736年)の娘で六代将軍徳川家宣の養女となった政姫のお墓です。政姫は宝永元年(1706年)に6歳の若さで病死しております。お墓は大変立派で葵の御紋もあり家宣公のお気持ちが伝わります。

新田氏(群馬県太田市)

上野国新田郡より起こる。現在の群馬県太田市です。新田氏は清和源氏義国流。清和天皇-貞純親王-源経基-満仲-頼信-頼義、源頼義の長男が鎮守府将軍源義家で義家三男の義国の長男義重(〜1202年)が新田氏の祖で、義国の次男義康(〜1157年)が足利氏の祖です。なお、鎌倉時代から南北朝時代に活躍した新田義貞(1300年〜1338年)は新田本宗家の8代目になります。新田氏の家紋は写真にある「大中黒・新田一つ引」です。お墓は文久3年(1863年)とあります。戦国時代に新田宗家を継承したのは岩松氏で、明治維新(1868年)後に岩松氏と由良氏ともに新田姓に復しました。その事から岩松氏等の末裔の可能性がありますが、明治維新前の為に新田家の宗家か気になります。

神宮寺氏(山梨県甲府市)

神宮寺氏は清和源氏義光流の武田氏族。八幡太郎で知られる源義家の弟が新羅三郎義光です。源義家は鎌倉幕府を開いた源頼朝と室町幕府を開いた足利尊氏の祖先です。源義光の孫である源清光の次男信義(1128年〜1186年)が甲斐源氏4代目で初代武田氏を名乗り、その武田信義の六男が神宮寺を名乗ったと伝わります。なお、戦国大名で有名な武田信玄は武田信義の16代目にあたります。武田神社の北方に神宮寺一族のお宅が複数あり、そこが神宮寺氏の発祥の地だと思われます。

松浦氏(長崎県と佐賀県一部)

肥前国松浦郡より起こる。現在の長崎県と佐賀県の一部です。嵯峨源氏融流の渡辺氏族。紫式部「源氏物語」の主人公光源氏の実在モデルと伝わるのが嵯峨源氏融流初代の源融です。嵯峨天皇-源融-昇-仕-宛-渡辺綱。鬼退治で有名な渡辺綱の曾孫の久が松浦氏の祖で松浦を名乗りました。写真は平戸松浦家の4代目松浦鎮信の墓で江戸下屋敷内の松浦鎮信が開基の天祥寺にあります。渡辺一族の家紋は三つ星に一文字で、松浦氏は三つ星の家紋を用いており、松浦家で三つ星の家紋はこの末裔の可能性があります。

北方氏(岐阜県本巣郡北方町)

美濃国本巣郡北方庄より起こる。現在の岐阜県本巣郡北方町です。清和源氏で摂津源氏の土岐氏族。清和天皇-貞純親王-源経基-源満仲-源頼光の五世代後の光基の養子となった光衡(1159年〜1207年)が土岐氏の祖と言われており、土岐光衡の三世代後の頼貞-頼遠(〜1342年)-頼興が北方庄を領して北方頼興を名乗ったと伝わります。土岐一族は桔梗の家紋を用いており、北方家で桔梗の家紋はこの末裔の可能性があります。

山上氏(群馬県桐生市)

上野国勢多郡山上庄より起こる。現在の群馬県桐生市新里になります。平将門を討伐した藤原秀郷の六世孫の成行が藤姓足利氏(源姓足利氏とは別)の始祖となり、足利家綱の子の高綱が勢多郡山上庄を領して山上氏を名乗りました。山上高綱は平安時代後期の武将で山上城を築城したと伝わります。

赤塚氏(東京都板橋区)

東京都板橋区に赤塚城跡があります。赤塚氏は秩父平氏の豊島氏の庶家と伝えられています。太田道灌が1477年に豊島氏の平塚城(東京都北区)を攻めた時に有力庶家の板橋氏や赤塚氏が戦死したとの事です。赤塚城は太田道灌を頼ってきた千葉自胤が治める事になります。城の南方には東京大仏と板橋氏の菩提寺である乗蓮寺。千葉自胤の菩提寺の松月院があります。


■おすすめルート(徒歩約45分)
①東武東上線成増駅→②板橋区立郷土資料館→③赤塚城→④乗蓮寺→⑤松月院

一瀬氏(山梨県巨摩郡)

一瀬氏は山梨県巨摩郡と八代郡に名族が多い。「九一色衆十七騎」に一瀬平三がいました。諏訪氏の一瀬氏と同族と思われます。

 

森戸氏(千葉県香取郡)

森戸氏は千葉県香取郡森戸荘より起こる。千葉氏の一族。千葉常胤(1118年〜1201年)の六男の東胤頼は東氏の初代です。東胤頼の嫡男の東重胤(1177年〜1247年)の5番目の胤有が森戸荘の領主となり森戸を名乗ったと言われています。

 

村上氏(千葉県八千代市)

千葉県八千代市に米本城跡があります。村上国綱・綱清が1532年から1558年に城主と伝えられています。城の北方にある長福寺は村上氏の菩提寺で綱清の墓と伝わる五輪塔があります。米本城の村上氏の出自は不明です。

■おすすめルート(徒歩約50分)
①東葉高速線村上駅→②八千代市立郷土博物館→③長福寺→④米本城